「同情するなら、金をくれ。」
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「本当に大丈夫なの?」
私がこれまでに何度も言われきた言葉。人生で何度「大丈夫?」と言われてきたことか。両親や友人、大して知りもしない赤の他人からと色々だ。
そして、私は思うのだ、
「心配は必要ない。余計なお世話だ。」
と。
もちろん相手にはこんな言い方はしない。
現実は、「心配してくれてありがとう。うん、私は大丈夫だよ☆」と良い子振るのだ。
色々な感情をこめて私はそれを言う。
今日はとある相談から考えさせれたブログだ。
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とある日、スーパープリティかまアイドルのゴリ美ちゃんが私に相談してきた。
「心配されるってレオみちゃん的にどう思う?」
唐突な質問に、「どうしたの?」とつい口にしてしまった私。
ゴリ美曰く、
”心配するくらいなら、応援してほしい”らしい。
だけど、実際は何か新しいことに挑戦したり、仕事を辞めると言った時、どこかに旅行に行く時、色々な状況で彼女はいろんな人から心配されてしまう。
そこで彼女はいつも思うのだ、「心配じゃなくて、応援してよ。」と。
新しいことを挑戦するなら、「頑張れ!」でいいじゃない。
仕事を辞めるなら、「よくやった!」でいいじゃない。
旅行に行くなら、「楽しんで!」でいいじゃない。
なぜ、そこで心配されるのかがゴリ美には理解できないみたいだった。
ゴリ美は【心配=同情】と受け取ってしまい、それが彼女の中で腑に落ちていないようだった。
話を聞きながら、うんうんと頷いちゃう私。
私もゴリ美と似た状況になることが多々ある。何かを始める時や、どこかに行く時、もちろん仕事を辞めた時、その都度家族や友人から「本当に大丈夫なの?」って心配されてきた気がする。
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私は、なぜゴリ美は心配されたくないと思ってしまうかについて考えてみた。
考えてみた結果、”信用されてない。”と感じてしまうからだと思った。
もし、周りが彼女のことを”大丈夫だ”と信用していたら、心から「頑張れ!」とか「いってらっしゃい。」などと言えるのではないだろうか。信用されてないとゴリ美が感じているとしたら、彼女が心配されることに納得いかないその言葉に私は納得ができる。彼女は信用されてない事実に悲しい気持ちになったのだろう。これからやろうとすることや、彼女にとってはプラスに考えてることを【心配=信用なし】という現実で、周りからそれを押し付けられることによって、彼女は抵抗感を覚えたのだ。
そう、心配されると言うのは、裏を返せば、”信用されてない。”ということになると私は思った。
ただ、これはあくまで私の仮説であって、ゴリ美に直接確認をしたわけではない。だけど、私はこの仮説がゴリ美をそう思わせてしまうたる理由になっているのではと思ってる。
そして、ゴリ美は続ける。
「それに、心配するくらいなら代わりに何かして欲しいと思わない?」「もし、何もアドバイスとかその人のプラスになることをしないぐらいなら、心配する意味ってないって私は思うんだけど・・・。」
ここでまた、私は「なるほど・・・・。それは一理あるわね・・・。」と思ってしまった。
もし、彼女が心配されることを求めてるなら、こんな話は出ないはず。彼女にとって”心配される”ことは、(言葉が正しいか分からないが)”余計なお世話”ということなのではないか。もし本当に彼女のことを理解して、そして彼女のことを考えるなら、心配するよりも彼女にとってプラスなことをするべきなのだろう。
(もちろん、心配されるだけありがたい話なのだが。それを言ってしまえば元も子もなくなってしまうので、ここではそれについては考えないことにする。)
ここで、あの言葉が私の頭の中によぎった。
「同情するなら、金をくれ。」(ドラマ ”家なき子” より。)
今私は、彼女の言葉の意味をちゃんと理解することができた気がする。
彼女を見て多くの人が同情するだろう。実際に私もあのシーンを見て彼女に同情した。だけど、本当に彼女を思うなら、同情じゃなくてお金をあげるべきなのだ。もちろん、お金でなくても彼女にとってプラスになる何かを差し伸べるべきなのだ。
彼女は同情なんてされたくなかった。それよりも、助けて欲しかった。それだけなのだ。
彼女とゴリ美とでは、全く状況は違うのだが、本質的なところでは一緒だと私は思う。
心配よりも「お金がほしい。」と思う彼女。
心配よりも「応援してほしい。」と思うゴリ美。
ここで私は思った。
「心配するって、時に、相手に対して失礼になってしまうのでは・・・。」と。
もし、”心配=信用してない”が正しいとすると、心配するたびに「私は、あなたを信用してません。」と言ってることになるのではないだろうか。
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”心配する”というのはその行動や考えに対して”信用をしてないこと”を表してること、そして、それを受け取った当事者がその心配に抵抗を見せることがある。
そういうと心配する方が”ダメ”と受け取られてしまうかもしれないが、そうではない。
この本質は、
心配される方が心配する人たちに信用されるまでにその考えや行動が至ってないということなのだ。
もし、ゴリ美が信用され得るに値していたら、周りは心配なんてしなかったはずなのだから。結局のところ、そうさせてしまったゴリ美に責任があるというわけだ。
なんだか、複雑になってきた・・・・。
簡単にまとめると、心配されないためには信用されなければいけないということだ。
その努力をせずに、(信用されてない状態で、)「応援して。」や「金をくれ。」というのはいささか強情なのかもしれないと思った。
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一方で、いろんな人が世の中居る。
心配されて”安心する・嬉しい”といった感情を持つ人もいれば、ゴリ美のように少しばかり拒絶をしてしまう人もいる。何の感情も抱かないサイコパスのような人も居るだろう。
そして、前者のタイプに、応援やアドバイスなんてしたら、それこそ余生なお世話のパターンになってしまうだろう。だから、心配や同情が必要な人もいるのだ。
だから、心配をする側は、時に相手を見定めなければいけないということになる。相手が心配されることを求めているのか、はたまた何か他のことを欲しているのかなど、何が相手に対して最適解かを考えることが心配する上で大切なのだ。
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ゴリ美の相談から色々と考えさせられた私。確かにゴリ美の言い分にも一理ある。彼女にとって、”心配”というのは最適解ではなかったのだろう。だけど、信用も得ていないのに”応援して”というのは、少しばかり無理があることも分かった。正直私も、過去にゴリ美と同じことを思ったことがある。その都度、なんで分かってくれないんだろう?と思っていたけど、それは単に私が彼らの信用を得ることができていなかったのだと理解することができた。
最後に、文中でも言ったが、心配されるだけありがたいことを忘れてはいけない。大多数の人は私たちに無関心なわけだから、気にかけてくれるだけで私たちは感謝しないといけない。だから、心配してくれた人を私たちは拒絶してはいけない。そして、心配されたくないなら、相手に心配させないように私たちは信用を得る行動をしないといけない。
ただ、もし私が心配する側になった時や誰かのことを思う時には、私は心配以上に何がその人にとっての最適解かを考えたいと思った。
レオみ。
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